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才谷勇蔵の寄せ鍋コラム
2004年5月30日(日) 第9回
「真っ白いキャンパスを別に常に用意する」
■ 立派に彩られたキャンパスを前にして

社会というのはキャンパスだ。人々はそのキャンパスにそれぞれ好きな色を 塗ることで自分たちの社会を形作っている。特に高度に発展している現代の 日本は色とりどりのカラフルな色で塗られた立派なキャンパスを持っている。

たくさんの物資が存在し、食うに困らず、安全で快適な社会、それが日本社 会のキャンパスだ。色とりどりに塗られたキャンパスは本当にどこに出して も恥ずかしくないくらいの代物だ。しかし、これだけ立派なキャンパスを持 つ日本社会にもないものが存在する。これだけ豊かになり物で溢れ返ってい る日本にもないものがある。

そう、それが真っ白いキャンパスだ。何も絵がかかれていない真っ白いキャ ンパスはこの国のどこを探しても存在しない。日本社会のどの部分を見ても すでに何らかの色が塗られている。ここはこうしろ、この場合はこうする。 私たちはその色に黙って従うしかない。私たちはキャンパス全部に何かしら の色を塗ることで大いなる発展を手に入れ、そしてその代償として真っ白い キャンパスを失ったのである。

そう、この国には、自分で自由に好きな色を塗ることができる真っ白いキャ ンパス、どんな色を塗ろう、こんなのにしようかというワクワクするような そんな人間にとって最も大切な気持ちが存在しないのである。私たち日本人 はただ、黙って立派に彩られた色鮮やかなキャンパスを指を加えて眺めてい るしかできないのである。

■人間には真っ白いキャンパスが必要

真っ白いキャンパスを前にした時、私たちは一体どんな気持ちになるだろう か?こんな色を塗ろうか、いやこんな色にしよう、わいわいがやがや楽しく て仕方がない。活力溢れるダイナミズムを体全体で感じることができるよう なそんな心高ぶる気持ちになる。

しかしそれは当然のことだ。なぜなら人間はこの真っ白いキャンパスに自由 に色を塗るために誕生した生き物だからだ。人間は真っ白いキャンパスに絵 を描くことが大好きだ。自分の思うがままに真っ白いキャンパスに自由に絵 を書くことができるときに最もイキイキと人は生きることができる。そのよ うに遺伝子にプログラムされている。

戦後の日本の発展はまさにこの、真っ白いキャンパスに色を塗るという行為 によって築き上げられたものだ。戦後の日本は何一つない焼け野原になった。 しかし、それは裏返せばまったく何もない真っ白なキャンパスを手に入れた ということ。これから自由に自分たちで好きな色を思う存分描ける。そうい う状態になったということ。

だからこれだけ大いに発展した。焼け野原になったにも関わらずではなく、 焼け野原になったからこそ戦後の日本はこれだけ大きく発展したのだ。目の 前には自分たちで好きな色を好きなだけ塗ることができる広大なキャンパス が広がっていた。その時の体の中から生み出される力はとてつもないものだ ったに違いない。

■ 真っ白いキャンパスがないとどうなるか?

歴史的に見ても、社会の中に真っ白いキャンパスが存在する時には人間はイ キイキと暮らしている。江戸時代が始まった頃や明治維新の頃、戦後の日本 を見ても、社会の中に真っ白いキャンパスが残っている限り、人間はダイナ ミズム溢れる活動を行っている。しかし、反対に社会の中に真っ白いキャン パスがなくなるとどうなるか?

江戸時代の末期、幕末に入る前の時代、鎌倉幕府の末期など、社会の衰退期 に目をやるとそこにはもはや真っ白いキャンパスは1つも存在しない。硬直し た真っ黒に塗り固められたキャンパスが存在するだけだ。こうなると人間は 生きていくことができない。息苦しさと窮屈さで我慢できなくなるのである。 現代の日本もまさにこれとまったく同じ状態なのである。

どんなに豊かであろうとも、どんなに発展しようともそこに真っ白いさらの キャンパスがなくなってしまえば人間は生きていけないのである。現代は すべてが色のついた形の決まったキャンパスが目の前に用意されているだけ だ。真っ白いキャンパスを取り上げられると人間は生きる気力を失う、それ が社会のいたるところでいろいろな形の問題として吹き出てくる。モラルの 低下や鬱積した感情は全部、真っ白いキャンパスと関係がある。

結局、こうなると人間は真っ白いキャンパスを何よりも欲する形で行動をと ることになる。何もかも破壊して真っ白いキャンパスを取り戻そうとする。 この1番典型的な例が戦争という行為である。戦争をして真っ白いキャンパス を取り戻そうとするのだ。今あるものを破壊して真っ白いキャンパスを作り 出そうとする衝動に駆られる。これは生物的な衝動だ。これを抑え付けるこ とはできない。戦争というのはいわば、真っ白いキャンパスを作れというシ グナルなのである。

■ しかし豊かさを失いたくはない

しかし、だからといって豊かさを失いたくはない。真っ白い自由に絵が描け るキャンパスを欲しながらも、色とりどりに彩られた色鮮やかなキャンパス も失いたくはないのである。豊かな生活、食べ物に困らず、たくさんの物資 に溢れた今の生活を失うことは決して望みではない。今あるものを捨ててま で1から何かを作り上げていかなくてはいけない真っ白いキャンパスを手に 入れようとは思わないのだ。

願わくば、何ら特別な労力を使うことなく、豊かな色とりどりのキャンパス を一方では持ちながらも、自分たちで自由に絵が書ける真っ白いキャンパス も手に入れたい、そんなわがままな願望を心の中に抱いているのである。

ただ、私はこのわがままな思いを見るにつけ、この思いは決して間違ったも のではないと思う。というよりもこのいいとこ取りの発想はとても重要な示 唆を含んでおり、この豊かさと真っ白いキャンパスの両立というのが、これ からの21世紀の方向性としてとても重要なものになるのではないかと思うの だ。もちろん、それはたぶんに多大な労力を使い、かなりの精神的な成熟が求めら れるものではあるのだが。

■ 何もないという状態を作る

豊かさと真っ白いキャンパスを両方欲するという、豊かな社会に住む人 間特有の気持ちを見ると、これから私たちがしなければいけないことは自ず と見えてくる。それは真っ白いキャンパスを自分たちの手で人為的に創ると いう事だ。自然的に存在する真っ白いキャンパスを、意識して意図的に自分 たちで作る作業を行うということだ。

真っ白いキャンパスは歴史的には破壊行為によって、無の状態にして本当に 何もない状態にまっさらにして作り出されてきた。しかし、今度はその真っ 白いキャンパスを破壊によって今ある色を消し去って、焼け野原を作ること で真っ白いキャンパスを手に入れるのではなく、自分たちの手で真っ白いキ ャンパスを、今あるキャンパスとは別の場所に新しく作るという事を行うの である。

真っ白いキャンパスというのは何度も言うように、1番初めの何もないまっさ らな状態でそこに1から好きな絵を自由に描いていける代物だ。そして、そこ にいろいろな色を塗ることで、人類はたくさんの創造物を作り出してきた。 それが人類の発展だ。

だから今度は豊かな社会になった私たちは、色を塗って何かを創造することと 同じように、その大本である真っ白いキャンパスそれ自体を創造するのである。 0に戻すことで真っ白い状態にするのではなく、その真っ白いキャンパスを 別に新たに創造する仕組み、それを作るのである。

■ 真っ白いキャンパスを別に用意するという感覚

今あるキャンパスはそのままに、真っ白いキャンパスを別に用意するというこ の感覚は21世紀、豊かな物質社会に生きる私たちにとってとてつもなく重要な 概念だ。この概念をその社会に住む人々が共有できているかどうかによってそ の社会の未来が決まると言っても言い過ぎではない。

本当に豊かな社会とは何もないという状態を作ることができるということだ。 つまり豊かな中に真っ白いキャンパスを作るという事だ。豊かさはキャンパ スに色を塗ることで手に入れることができた。しかし、そこから先、本当に 我々が豊かになるには、今あるキャンパスを壊すことなく、別に何も描かれ ていない真っ白いキャンパスそれ自体を作り出すことができるかどうかにか かっている。

そういう意味で、豊かな社会で最も求められることは、豊かな物質を作るの ではなく、逆説的に、「何もないという状態を創る」、それを可能にする仕 組みを創る、ということなのである。何もないというものを創る、そんなも のが果たして創れるのか、「無を創る」という意味の理解と言い換えてもい いかもしれない。そういった感覚をその社会に生きる人が意識として共有で きるかという部分が豊かな社会を永続させるためには必須なのである。

■ 矛盾を超えて

人は矛盾した生き物だ。これは変えがたい事実だ。人は真っ白いキャンパス がないと精神的な意味で生きられない。人は色の塗られた鮮やかなキャンパ スがないと生きるために必要となる食べ物が手に入れられない、物質的に生 きられない。人間はこのように、真っ白なキャンパスも色鮮やかなキャンパ スも両方欲しいという矛盾した、かつわがままな生き物なのだから、結局私 たちはその人間の性質に忠実に社会の仕組みを創るしかないのである。

具体的に、今あるキャンパスとは別に真っ白いキャンパスを別に用意するに はどうすればいいのかと思われるかもしれないが、それはその社会に生きて いる人皆で考えないといけない。人間には、まったく両極端の、真っ白なキ ャンパスと色鮮やかなキャンパスの両方が必要だということを理解し、その 上で、その理解を通して、私たちは自分たちの手で最善の仕組みを構築して いかないといけないのである。

すばらしいお手本のような答えがどこかにあるわけではない。あるのは、人 間には真っ白いキャンパスと色を塗られたキャンパスが必要だという事実だ け。そこから出る答えは自分たちで探していかないといけない。1つ私が言え るとすれば、真っ白いキャンパスというのは創造のシステムだ。真っ白いキ ャンパスを前にして、これからどんな絵を描いていこうかという時の気持ち、 そういった気持ちが自由に羽を伸ばすことができる仕組みを、

”既存の社会システムの中に創るのではなく”、またそことはまったく別の 場所を確保し、そこに用意するということなのである。色のついたキャンパ スは色のついたキャンパスとして機能させ、それとはまったく別に、もう1つ の真っ白い何も絵の描かれていないキャンパスを機能させるというまったく 異なる概念で動く仕組みを受け入れるということなのである。まったく正反 対の仕組みで動く、異なるシステムを同時に2つ、社会の中で稼動させると いうことなのである。

■ 豊かで成熟した社会に求められるもの

私の言っていることはたぶんに感覚的なものだと思う。しかし、このまった く正反対の仕組みで動く異なるシステムを同時に2つ、社会の中で動かすと いうことを感覚として理解できる知性、これが21世紀にはどうしても必要と なる感覚なのである。この感覚がしっくり来ないというのであれば、21世紀 の豊かで成熟した社会では何をしても残念ながらうまくいかないだろう。

なぜなら、それが豊かで成熟した社会における、高度さの尺度であるからだ。 貧しい社会、発展途上の社会、急成長している社会に見られるように、ただ キャンパスに色をたくさん塗ることが唯一の至上命題であるという社会とは 決定的に違うのである。そこがわからないというのなら、豊かで成熟した社 会を維持することは到底できない。

ただ、こうした感覚を理解し、二つの異なるシステム動く仕組みを同時に社 会の中で動かせることができれば、私たちは豊かさの中にも、自由に好きな 色が塗れる真っ白いキャンパスを手に入れることができ、ワクワクドキドキ した、どんな色を塗ろうかというあの気持ちを豊かな物質社会の中でもいつ までも持ち続けることができるのだ。

原始的な社会が持つ精神的な開放感や高揚感と、豊かで物質に恵まれた高度 に発展した社会が持つ物質的な充足感、この両方が別々にかつ同時に機能す る社会こそ、21世紀の豊かで成熟した社会を成立させる根本であり、そして、 これこそがやはり人間が生きる上でも、既存の豊かな社会の仕組みを維持す るためにも最も重要なことなのである。

真っ白いキャンパスを別に用意する、この感覚を忘れないで欲しい。
※このコラムは、小説を出版するためのお金を出して下さった方に才谷勇蔵が そのお礼と感謝の思いを込めて書いているコラムです。このコラムが面白ければ是非、小説出版 のお金も出して下さい!(勇蔵)
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