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才谷勇蔵の寄せ鍋コラム
2004年2月11日(水) 第1回
「エリートから順番に安全なイスに座っていく国」
■ みんなで支え合う腐った仕組み

日本の社会の仕組みにおいて何が1番腹立たしいかと言えば、それはエリートと呼ばれる人間 から順番に安全なイスに座っていくことだ。有名な大学を出た1流と呼ばれる人たちは、それ までの不毛な努力の対価として、当然、自分には安全なイスに座る権利があると言わんばかりに 官僚、公務員、大企業といった安全なイスに順番に座っていく。

周りの人々も決して、この「エリートから安全なイスに座っていく仕組み」に対して異議を申 し立てたりしない。エリートとはどうあるべきか?エリートの取るべき姿勢とはどういったもの なのか?エリートこそ、彼らこそが未知なるものに挑戦していかなくて誰が挑戦するのだ!などと いうようなことは端から眼中にない。

彼らに興味があるのはただ1つ。自分も(不毛な)努力をすれば、エリートになれ、安全なイス に座れる可能性があるという甘美な響きだけなのである。だから、自分が安全なイスに座れるか もしれないという希望のニンジンを手に入れることを妨げるような「エリートはどうあるべきか」 などという議論には、一寸の興味も湧かないのである。

こうしてこの国は、このニンジンレースを根幹にして、ニンジンレースに勝ち残った者によって 運営される。その結果がどのようなものになるかなどということは、猿でも分かることだ。残念な がら、この国にはエリートと呼ばれる者の自負も誇りも、精神も役割も存在しないし、誰も追求も しない。あるのはただ安全なイスに座れるかどうかという視点だけなのだ。これ以外に、この国を動 かしているものは何1つも存在しないのである。

これが日本という国だ。

■ エリートはエリートにあらず

私が高校生の頃に読んだ本の中に本田宗一郎の本があった。その本田宗一郎の本の中には、「現在の 社会において、今現在エリートの立場にいる者は、今現在エリートの立場にいるという理由におい て、真のエリートではない」という言葉があった。その時はこの言葉の意味がよくわからなかった。 しかし、なぜかこの言葉が私にはとても心に響いたのだった。

エリートがどのようなものかは私にもはっきりと分からない。ただ、私には、エリートと呼ばれる人 から順番に、安全なイスに座っていくような社会の仕組みが正常な社会の仕組みであるとは思えな いのだ。どうして優秀な人から順番に安全なイスに座っていくのだろう?逆ではないのか?優秀だと いうのなら、優秀な人から順番に困難な事象に対峙していくのが物の道理ではないだろうか?私はそ う思う。

未知なるものを作り出したり、発見したりするのはやはりとても困難なことだ。一筋縄ではいけない し、うまくいくかどうかもわからない。だからこそ、こういった役割を社会の中で担うべきなのは、 エリートと呼ばれる者の責務だし、それがエリートと呼ばれる人間のやるべき仕事なのではないだろ うか。誰にでもできない仕事をやるからこそエリートだし、そういった仕事をすることこそエリート には求められている。だからこそのエリートなのだ。安全なイスに座るだけなら、そんなものは社会 にはまったく必要ない。

明治時代のエリートたちは、自分たち自身が外に出て、新しい文化や技術 を西欧諸国に学びに行った。江戸時代の武士も誰よりも高い行動規範 を自分達に課した。幕末の武士達も、誰にもできそうもないような困 難な事業を自らの手でやり遂げた。それがエリートのエリートたる所 以だ。西欧の貴族達は戦争が起これば、誰よりも先に戦場に赴いた。 現在社会でも中国やインドのエリート達は自ら新しい技術を習得する ためにアメリカに渡る。

アメリカでは、優秀な大学を出た者から順番に新しい会社を作り、新 しいものを生み出そうと果敢に挑戦する。結果、新しい雇用も多数生 み出し、社会に貢献している。こうした行動こそが、エリートと呼ば れる者の行動なのだ。西欧ではこれをノーブレス・オブリージの精神 と言う。優秀な者には優秀な者に課せられた使命があり、それを遂行 する義務がある。そういった意味だ。この精神に誇りを感じ、ノーブ レス・オブリージの精神のもと行動できる者がエリートと呼ばれる生 き物なのだ。

こうした事例を見るにつけ、一体全体日本の社会に存在するエリート と呼ばれる人たちは自分達の行動を恥ずかしく思わないのだろうか? 自分たちから順番に安全なイスに座ることに対して何も感じないのだ ろうか?「自分達は安全なイスに腰掛けるし、それが当然のことだ。 後の人は好きにして下さいね」では、そこにエリートとしての誇りも 意地も何もない。ただあるのは、エリートと呼ばれる者の歪んだ優越だけだ。 空寒い気がする。こんな時代だからこそ、一層エリートとしての姿勢 が求められているというのに。

私はエリートとは、自分から安全なイスに座る者のことではなく、優 秀であるからこそ自分から困難な道を選び、困難な事象にチャレンジ する者のことを言うと思う。これ以外にエリートと呼ばれる者の仕事は ない。 だから、エリートがエリートの責務を放棄して、安全なイスに順番に座 るのなら、それはもはやエリートと呼べる代物ではない。そこにいるの はただ、自分の身の安全を確保することを第一に考え行動する、およそ エリートとは対極の生き物だけだ。残念なことに、日本の社会ではおよ そエリートと対極の人間がエリートになり、彼らが彼らの都合の良いよ うに社会の仕組みを作り、社会を動かしている。これが日本の社会の現 状だ。

そして、残念なことにこの国は、エリートとは対極の人間だけがエリー トになれるという図式が社会の根幹にまで深く根を下ろしてしまってい る。本田宗一郎はこうした図式をみて、現在のエリートの立場にいる者 は、現在エリートの立場にいるという理由でエリートではないと言った のだろう。

しかし、どうして周りの人々は、こうしたエリートから順番に安全なイ スに座っていくという仕組みに対して文句を言わないのだろう。どうし てエリートと呼ばれる者に高い精神的規範を強く求めないのだろうか? どうして一流の大学を出た者から順番に、未知なるものに挑戦する姿勢 を強く求めないのだろうか?エリートが安全で身分の保証されているイ スに座ることはとても恥ずかしいことだと声に出して言わないのだろう か?

■ 自分も安全なイスに座りたい

周りの日本人が、エリートと呼ばれる者が安全なイスに順番に座っていくことに対して非難しないのは、 自分もそっち側の人間になりたいからだ。試験勉強をしていい大学に入れば、自分も安全なイスに座るこ とができると知っているからだ。試験の内容が何だろうが関係ない。とにかく為政者に用意された物を用 意された通りこなしさえば自分も安全なイスに座ることができる。そう知っているからだ。その仕組みに よって日本の教育は動いている。

ある意味、これはとても危険なことだ。こうなると人々は教育の中身について深く考えようとはしない。 そんなことよりも、安全なイスに座るためにとにかく用意されたものをこなすことしか考えなくなる。 為政者にとっては非常に都合のいい、再生産の仕組みだ。しかし、こんなやり方でずっとやっていけるは ずがない。エリートと呼ばれる人がその仕事を放棄し、またエリートになるべきでない者が安全なイスほ しさにエリートになる社会が健全にやっていけるわけがない。

社会には確実に歪が生まれてきている。それは他でもない私たち自身が良く分かっていることだ。 誰も新しいことに挑戦しない、新しい仕組みをつくろうともしない。問題は先送り、新しい社会の仕組み を作り出そうという気概もないし、その役割を担えるリーダーもエリートも存在しない。そして、こんな いびつな仕組みを支えているのは他でもない私たち国民1人1人なのである。こんなおかしく住みにくい社 会を作り出しているのは、実はその根本にいるのは私たち自身なのだ。

それでも私達はエリートから安全なイスに座っていくというような仕組みを否定しないのだろうか?こん な仕組みを否定する気概が持てないのだろうか?気概を持てないにも関わらず、エリートに社会を変える ことだけは要求するのだろうか?私はそんなのは断じてイヤだ。誇りも意地もプライドも何もないような 社会は断じていやなのだ。だからエリートには、エリートから未知なるものへ、困難なものに挑戦する気 概を強く求める。

自分もエリートから安全なイスに座るというような社会の仕組みを放棄し、チャレンジし続ける。もし本 当にこの国によい国になって欲しいと思うなら、こんなおかしな仕組みを否定する勇気とエリートに高い 精神的規範を強く求める姿勢が必須だ。冷静に考えても優秀な人間から安全なイスに座るなんてのはおか しいでしょ?それに目をつぶって自分もあわよくば安全なイスを手に入れようと思うのは、人としてやっ てはいけないことだと私は思う。そこは断固としてやせ我慢でもいい。こんなおかしな仕組みを拒否する 姿勢が私にはとても大切なことだと思うのだ。

■ エリートから困難な道を選ぶ社会へ

さあ、私たちにはもう準備ができているはずです。これからは、21世紀の社会では、エリートと呼ばれる 人にこそ、困難な道にチャレンジしてもらいましょう。それが嫌だという人はエリートになる資格はない。 訳の分からない試験でエリートを選ぼうとする仕組みではなく、安全なイスに座ろうとする者がエリート になろうとする仕組みではなく、新しいものを作り出し、生み出そうとする者、より困難なものに自ら進 んでチャレンジする者にエリートになってもらい、社会を運営する、それが21世紀です。

そして何より大切なのが、こうした仕組みを作り出し、維持し守っていくのは私たち自身だということで す。私たち自身の心の中に、エリートこそ困難に挑戦しなくてはならないという気概を持ち、エリートに こうした厳しい要求を突きつけ、厳しくそして温かく見守ろうとする意思こそ、何よりも大切なものなの です。エリートとはいつの時代においても、安全なイスに自分から座ろうとする人ではなく、より困難な 道に自ら進んで歩んでいく人のことです。この精神を私たち、社会にいるすべての人は忘れてはいけない のです。

エリートからより困難な道に果敢にチャレンジしていく社会へ、それが21世紀の社会の合言葉だと私は思 っています。
※このコラムは、小説を出版するためのお金を出して下さった方に才谷勇蔵が そのお礼と感謝の思いを込めて書いているコラムです。このコラムが面白ければ是非、小説出版 のお金も出して下さい!(勇蔵)
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